言いだせなかった、でも。
あなたは判ってくれた。
004:何よりも恐ろしいのは君が忘れてしまうこと
トンと軽く地面を蹴る。退いた分だけ勢いを込めて踏み込む。相手の鳩尾を狙って一撃を繰りだす。よろめくのを戦力外と判断して地面へ這うように前傾し背後に向かって踵を蹴りだす。高く上がる踵が正確に相手のあごをとらえて固い感触を感じた。ぎらつく獲物を振り回すのは体を沈めて下から吹っ飛ばす。あっという間に卜部の戦闘圏内から相手が退く。一撃に手加減はしない。重さで加減はしないが頻度で加減する。重さを味わうだけの時間を与えたのは相手に逃走という選択肢を突きつけるためだ。卜部の痩躯がふぅわりと昇るように立ちあがる。粗雑に切られた短い髪は無遠慮な広告灯で赤や青に照る。
「足りねェ」
切り裂くような獲物さえ持たずに卜部は相手を叩きのめす。空手であることは相手の油断を誘い、卜部の実力を引き立てもした。相手がすぐさま反撃に出ないのは実力差がにじり寄っているからだ。勝てない相手に見栄や志で向かっていくほど、路地裏の住人は温室育ちではない。利害を見極める目だけは下っ端であるほどに鋭くなる。卜部の腕がひょいとあげられて腰へ当てられる。子供を見下ろすような態度で片足に重心を傾けるのは卜部の余裕の証だ。
相手は驚くべき速さで散っていく。組織だったものはほとんどおらず、知りあって日が浅い連中が何でもいいから得るために群れるだけだ。互いの素性やときに素顔さえ知らぬままにたむろしては弱者から奪う。この場合の弱者とは社会的というよりたんにこの界隈において力のないものだ。それは女子供であったり新参者であったり、また昨日までは組織だっていたような連中ばかりだ。卜部は散り散りになる連中の背中を眺めてから嘆息した。ひらひらと紙幣が舞うのは屈服と敗北の証だ。準備運動にもなりゃしねェと毒づいて何か得られるものがないかあたりを探す。落し物は案外捨てておけない位置にあるものだ。ひょいと長い脚を折って屈み、ばらまかれた紙幣を拾う。広告灯のけば立つ明かりの中で金になるもんはねェかと地面を見た。
「ふふ、さすがだ。来歴にたがわぬ動きだ、ほれぼれするよ」
さらりと暗闇が濡れて艶めいた。卜部が目を上げれば簡素な衣服に身を包んだ少年が笑んでいる。衣服はこの界隈で手に入るような質素なものだ。生地も縫い目も粗く、解体や補修を前提としている。白いような指先で肩から流れる長い髪を払う。零れ落ちそうに大きな双眸は紫雷の強さで卜部を見つめている。細い眉や長い睫毛。艶めくそれらが断続的に瞬く広告灯の明かりでコマ送りのように映し出される。
「なんだ、オレの顔が判らないのか? こうすれば判るかな、ほら、オレだよ…?」
腰に届きそうな髪を一つにくくって見せる。首筋に沿うような髪の束が視界から消えて短髪に見える。卜部の目が眇められた。
「ルルーシュ・ランペルージと言えば、判るか? ふふ、お前が命をかけて助けてくれたろう。あのときは本当に助かったよ」
卜部がルルーシュを認めたのを見てからルルーシュは髪を抑えていた手を解いた。細い髪がはらはらなびいて肩や首を隠す。
「死んだってェ聞いたぜ」
「情報の誤伝達は解消できない課題だな。そういうお前も、あのとき死んだと思っていたんだが?」
長い黒髪はつやつやと明かりを反射した。卜部の視線の向きに気付いたのかルルーシュが長い髪をつまんで見せる。
「長い髪は便利だよ。性別を誤認させる。思わぬ方向へ事が進んで困ることもあるがな。判っていて誤解する奴は思い知らせるだけだよ。どうもオレは寝床の相手を選べるだけの力はあるらしい」
ルルーシュの言葉は卜部の置かれている状況を逆撫でする。口元を引き結ぶ卜部にルルーシュは気遣うふうでもなく言葉を並べた。口ばかりが動きそれを武器に世間を渡るのは変わっていない。
「死んだと思ったお前が生きていて本当に嬉しいよ。オレも身軽になった体だ、思う存分愛し合える。お前、決まったパートナーはいるのか? ことによってはお前を身請けする用意もある」
ルルーシュの唇が鮮烈に紅く光る。それが差し込む広告灯のものなのかルルーシュの唇の紅さなのかは判らない。艶を帯びて嫌らしく歪む唇は確実に下半身を中心とした衝動に照準を合わせている。
「お前の戦闘力は素晴らしいよ、オレに必要だ。頭の方にエネルギーを使うとどうも体がおろそかになって駄目だな。そういう意味でオレとお前の利害は一致をみているとオレは思うんだが、どうだ?」
卜部は返事をしない。ルルーシュであるということは確信した。名乗りのほかに事前に得ている情報と身形も合致する。白い肌に黒い髪、紫苑の双眸と怜悧に出来のいい顔立ち。人の神経を逆撫ですると知っていて、その威力を最大限に引き出せる話術と語彙の持ち主。盤上の遊戯のように実戦においての作戦を立案、実行。卜部が知り得るだけの情報と目の前の少年は合致する。違っていても今の卜部の位置ではありふれた誤認だ。どうせ責任を負うのは卜部一人でもある。
「…返事を聞こうか? オレの情人になる気は? イエスかノーで答えろ。返答によっては対応を変えることもあるからな、気をつけろ」
ふふふ、とルルーシュは楽しそうに笑った。言葉遊びを楽しむようなことの運びでさえ、卜部が聞いていたルルーシュの人物像と一致する。勝利しか受け付けず、それでいてどこか危うい遊びを楽しむ。
「なんだ嫌なのか? オレ専用の雌猫になるのが。大丈夫だお前の愛らしさはオレはよく知っているし、お前が欲しがるものを与えられるだけの力はあるつもりだ。子孫についてはとやかく言わんさ、直子継承にはもう飽き飽きしているんだ。血統も年月を経て変わる。保たれる純血は思うほど尊くはないな」
ルルーシュの足取りはゆっくりと卜部に歩み寄る。卜部は身じろぎもせずそれを待つ。さしだされる爪先は桜色に整い、ある程度の手入れと負担のなさを示す。卜部の指先など下層生活に荒れている。体液の侵蝕は卜部の想像以上に皮膚を荒らした。ルルーシュの潤んだように蠱惑的な瞳が卜部を映しだす。
「本当にお前にあえて嬉しいんだ、遠くから見るだけで済まそうと思っていたのにお前の戦闘はとてもきれいだった。体の動きの一つ一つがまるで…ふふ、二人で睦みあっている時のように柔軟に動くんだ、素晴らしかった」
ルルーシュの姿はこんな荒れた街路でも優美だ。生ゴミや空き缶が散乱し腐乱する一方で、暮らしの領域は侵蝕するように広がっていく。広告灯や看板は契約期間を終えても撤去されず瞬き続ける。電球や配電が絶えるまでそれらはただ倦むこともなく繰り返される。卜部もこの路地裏にねぐらを構えてから長期間同じ場所に寝起きしない。相手によって商売の場所は変わり、地べたを這ったかと思えばマットレスで眠れることもある。眠っていて叩きだされたこともあるし、寝ていた相手を蹴りだしたこともある。
「お前の生活は苦労が多そうだな、そんな空気だ。だがオレは一応定住できる寝床をもっているし食事の保障もあるつもりだ。これ以上にそろえるべき条件があるならば言ってみろ」
政治的な大改革前から卜部は不安定な生活を送っている。政治の上層部の動揺など末端の路地裏暮らしに影響はしない。彼等がなんとお題目を並べてもこの無法地帯を消すことさえ難しい。規制が施行されるたびに路地裏は抜け穴を見つけまた規制を受ける。イタチごっこだ。意味などない。皆、暇なのだ。
「別にィ」
卜部の肩から力が抜ける。片脚へ重心を傾けるとルルーシュの口元が吊りあがる。満足げな弛みに卜部の眉は跳ねたが文句や意見はしない。
「飯と寝床の保障はほしいけどな。…ただ、あんたを相手に限る理由ァねェよ」
食事も寝床も卜部は今まで一人で何とかしてきた。荒れた生活に音を上げる前に体が慣れた。
卜部の脳裏を一人の男がよぎる。厳格で清廉な男はどこまでも綺麗で何があっても美しくて手など届かなくてそれでいいのだと知っている。その男の名の発音も綴りも思い出せる。忘れることは出来なかった。ルルーシュもそれに気付いたのか苦々しげな顔をする。
「藤堂か」
現在は政変の果てに要職に就いているだろう男だ。戦闘力に秀でて大国に土をつけた戦績さえある。敗北が決定的になってなお、警戒が必要であるとされた男だ。
「お前はまだ、藤堂が好きだと言うのか」
卜部はかつて藤堂のもとにいた。日本が消えていた期間でさえ卜部は活動の指針を藤堂に求めた。藤堂も指揮下にいようとする者たちにそれなりの対応をし、黒の騎士団という新たな活動拠点を得てからもそういった者たちを冷遇したりしなかった。卜部は紆余曲折の果てにその団体から離脱した。意識的な離反ではなく戦力外として離れた。もっとも回復するのに時間がかかったので、藤堂やそれにならぶ者たちの卜部の切り捨てを恨んだことはない。卜部自身、致命傷であると死を覚悟した戦闘であった。
だが回復しても卜部は藤堂のもとへ帰らなかった。乞われなかったとかそんな自尊心ではなくただ、要らないかなと思った。機能している状況へ加えられる一手がよい方向に働くとばかりは限らないのを卜部は知っているつもりだ。藤堂にも卜部は死んだとして伝わっていると思ったし、下手に復帰しては惑わせるだけだ。だがそれは卜部に思わぬ負荷を強いて、路地裏で荒れた生活を送る原因にもなっている。
「お前は帰ってこなかった…」
ルルーシュの指先が震えた。紫苑の双眸が無防備に潤んで落涙する。
「オレはお前を死なせたと思って、辛かったのに、帰ってきてほしかったのに」
桜色の爪先がぎゅうと卜部の襟を掴んだ。その白い手が震えている。卜部はどこか遠くそれを眺めながらこともなげに言った。
「…戦力外として忘れりゃあ良かったンだよ」
ルルーシュの平手打ちが炸裂した。机上で作戦を組み立てるルルーシュにしては機敏な動きだ。
「忘れると言うことは相手に忘れられることも容認するんだぞ。オレはお前を忘れたくなかったし…お前に、オレを忘れてほしくなんて、なかった!」
卜部は平然と叩かれた頬を指で掻いた。ルルーシュが非力であるのは変わりないらしく、路地裏で暮らしても腕を鍛えたということもなさそうだ。肉体労働は別の雇人にやらせるなり避けるなりしているのだろう。逆に卜部などは進んで体を動かした。体はすぐに鈍る。戦闘力は使わずにいれば坂を転がるように落ちる。
「オレはお前に会えて嬉しいのに」
白い手が紅くなるほど強く握りしめられている。襟がしわになったり型崩れしたりするのも気にしない。もっともそんな高尚な衣服を卜部は身につけていないから気にもならない。
「おまえがしんだとおもったときはほんとうにかなしかったんだ」
とぎれとぎれの発音は卜部の頭の中で字を結ばない。ただ変換前の羅列に卜部は茫洋とした。変換されない羅列は意味を読み取るのに調子が必要で誤認しやすい。卜部はルルーシュの台詞を二三回頭の中で復唱した。
「…藤堂だってお前を忘れているかもしれないのに」
「別にイイよ」
今度の言葉は明確に変換されてすぐさま意味を理解した。だがその深意までは読み取れない。ルルーシュが藤堂を持ち出すのは決定的な何かを与える前だ。威力の増強として藤堂の響きを使うのだ。
「ホントウだぞ、オレはオレが死ぬまで藤堂からお前の名を出されたことはない。藤堂はお前のことなんて考えてない。それでもお前は藤堂が好きなのか」
「だからな、別にいいンだって」
卜部は己が覚えているから相手も覚えていてくれるだろうなんて期待はしていない。そもそも卜部は周囲に対する期待が希薄だ。想いに応えてくれるとか嫌がらせされないとか、なんとも思わないのだ。対等な効果を得ようとも思わない。己がする分だけ相手が返してくれるなんて、だれが保証してくれるの。卜部はいつだって失望して、だからいつしか期待なんてしなくなった。藤堂と知り合う前に構築されたその考え方は藤堂の存在をもってしても変わらなかった。
「俺は俺が好きだからお前も俺を好きだろうなんて思わねェんだよ」
そんなことォ考えて何になるんだ、腹の足しにもならねェ。
「だから別に、相手が俺を覚えていなくたって別に怒ったりはぁしねェよ」
忘れてくれていい。覚えてなくていい。
「ゼロに戻ることは別にこわかァねェよ」
俺を知らない時のあなたに、あなたが戻っても俺はあなたを引き戻そうとは思わない。
「……うらべ、でもそれは、それはつらい…オレは誰もかれもがオレのことを忘れてしまったら哀しいと、思う」
ルルーシュの潤みきった双眸が卜部を見上げた。双方の身長の関係上、ルルーシュが卜部を見上げる形になる。卜部の長身は人種の平均値から見ても珍しいほどで、卜部は見上げられることに慣れている。
「だったらァ皇帝ルルーシュは生きてるって叫んで出てけよ」
「話を聞いてないのか? オレは誰もかれもといったんだ…世界中でたった一人でもいいんだ、むしろお前だけでいい、お前一人でいい、お前一人だけでもオレを知っていてくれたらオレは、満足だ」
「じゃあ何で死ぬンだよ」
「必要だからだ。妹が生きる世界のためにオレが消えることは必要なんだ、妹だけじゃなくて世界のためにオレが死ぬのは必要なことだった」
「馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるような卜部にルルーシュがにっと笑う。
「そんなことを言って、お前何を照れてるんだ」
つんとルルーシュの指が卜部の頬をつついた。引き結んだ口元の緊張や頬の火照りは卜部も自覚している。
「自分がいなくなることを否定しなかったお前なら判るだろう。居ない世界というものも、あるんだ」
ぎゅうとルルーシュは卜部の痩躯に腕を回す。しがみつくように頬を寄せる。
「お前なら判るはずだ。忘れると言うことはそれが要らないと言うことだ。オレが少しでも、一欠片でも必要なら妹はオレのことを忘れないだろう…でもオレが必要じゃなくなったときに妹はオレを忘れるだろうし、オレは別にそれを避けようとは思わない。お前が藤堂の前に姿を見せなかった、みたいに」
ルルーシュの涙に濡れた双眸が卜部を見上げる。紅い目元や睫毛の瞬きで目が潤む。その紅い唇が躊躇しながら言葉を紡ぐ。ルルーシュの躊躇は珍しくて卜部は何も言わずに続きを待った。ルルーシュは何度か噎せながら泣き声を殺す。それでも何か言いたいことでもあるのか、頻りに卜部のシャツを掴む。
「………つらく、ないか」
訊き返さない卜部にルルーシュはさらに言葉を募る。一度決壊した堰は堪えていたものが大きいほど修復は難しく、とどまらない。
「オレは必要であっても妹に忘れられてしまうのがこわかった…お前は、藤堂に忘れられてしまうかもしれないことは、怖くなかった、のか? 藤堂が、好きだったんだろう。四聖剣の面々は生存していたのにお前だけが消えることが怖くはなかったのか? だってお前、だけだった…オレが殺したのはお前だ」
卜部の手がばしんとルルーシュの頭をはたいた。長い黒髪が毛先まで震わせて揺れる。落涙のままに濡れた瞳を向けるルルーシュに卜部が笑った。
「だからそれは今お前が言ったんだろ。要らねェから忘れるンだよ。いらねぇやつがうろついてどうすンだよ。もう俺が要らねぇから中佐ァ俺を忘れるンだよ、それを俺が責めてどうするよ。ばかばかしい。いらねェ奴ァ消えるだけなんだよ」
「だからそれは辛いだろうって言っているんだ、この馬鹿ッ!」
「判ってんじゃあねぇかよ。俺の辛さァ中佐には関係ないしテメェにも関係ねェ。俺が勝手に辛いだけのことなんだよ、気にすんな、ガキなんだから」
「この馬鹿ッ、だからそれが」
「おー馬鹿で結構だァそんな馬鹿ァ抱え込みてェっていうテメェのが馬鹿だろ」
「お前の馬鹿さ加減と体の感度は別だからな」
「言うじゃねぇかよ」
ぷんと唇を尖らせてそっぽを向くルルーシュを卜部が小突いた。ルルーシュの指が震えた。
細い体を抱き寄せれば華奢ななりに応えてくる。ルルーシュの肩は細く、痩躯の卜部でも屈服させることができそうだ。この華奢ななりでよく路地裏を生き抜けると思うが、そうしたなりであれば相手の油断も勘違いも誘えるのだろうかと思う。ルルーシュの頭脳は明晰で相手の対応を含めた対処に長ける。相手がどんな反応を見せても対処できる強みがゼロと名乗っていた時のルルーシュの実力だ。その場その場での対応と求められる戦闘もこなし、政治的な戦略さえも繰る。膨大な相関図や勢力図を描き考え含められるルルーシュであれば複雑な考慮はお手の物だろう。卜部が認識している以上の情報を得ている可能性も高い。情報の威力をいかんなく発揮できる実力であればこそ路地裏でも生き抜けるのかもしれない。
卜部が梳く髪をルルーシュは好きにさせた。その代わりにルルーシュの指が卜部の体を這う。襟を開いて入り込むことさえ卜部は容認した。その赦しを得てルルーシュの指は好き勝手に動き回る。ルルーシュが撫でる範囲は首筋にとどまらず腹部まであらわにする。それでも路上での交渉がありふれた路地裏では留意点にさえならない。卜部の膝が砕けて座り込むのをルルーシュがなんとか袋小路へ連れ込んだ。袋小路はそれ自体が意味を持ち、その意味は通じるものにしか判らない。通じるものの間では袋小路は交渉の寝床だ。通行人が眺めても邪魔はされない。路地裏で生き抜く秘訣は実利のないものに関わらないことだ。
ルルーシュはむさぼるように卜部の唇を吸った。卜部も拒否しない。襟を開かれベルトを解かれても突き飛ばしや止めさえしない。
「…これはオレの情人になると言う、承諾か」
長い黒髪が幕のように垂れて卜部の表情を隠した。網目のように複雑で入り組んだ髪の流れに卜部は笑いながら何度も梳いた。細い髪がさらさら揺れて卜部の指の動きに流れながら次には新たに絡んでしまう。密な流れはさながら幕のように光をさえぎった。
「オレは、お前が」
「お前じゃねェ、名前ェ呼べよ。それが証だ。あんたァ俺の名前知ってるんだろう、名前は支配の証なんだよ」
ルルーシュの睫毛が瞬いた。不思議そうなそれは文化の違いによるものだ。ルルーシュの知識では名前は無駄に長く所属を示すものでしかない。
「言霊信仰ォなめんな。名前は全てで、名前知られるってなァ支配の有無なんだよ。大昔には結婚相手にしか名乗らなかったってェ話だぜ」
「ふん、いつの時代だか」
言い捨てながらルルーシュの口元はだらしなく緩む。
「ばか、だいすきだよ」
ルルーシュが頬を寄せる。火照ったように熱いそれに卜部の口元が弛んだ。
「髪、切ろうかな」
「ほせェなァ。伸ばしても量がねェし別にいいんじゃあねェの」
「願掛けだ」
「なんの」
ルルーシュはきょろっと大きな双眸をうごめかせて卜部を見据える。密で黒い睫毛は化粧したように長く瞬いた。ルルーシュは素顔であっても化粧したように端々が綺麗だ。睫毛の長さや唇の紅さや、そんなものは手を加えなくても構わぬほどいろめいた。
「巧雪に会えたらいいなと思って伸ばした。…何かを断ったり我慢したりすることで、願いをかなえるおまじないがあると、聞いたから」
ルルーシュは紅色の髪をした少女の名を上げる。彼女から聞いたのだと言う。彼女の血筋は半分は日本人であるから、片親からそんな風俗を聞いたのかもしれない。
「世界中のだれもが、たとえお前自身であっても、お前を忘れてしまいたくなどなかった。だからオレだけはお前を覚えているんだと言う心算で髪を切らずに、いたんだ」
ただ密やかに私だけはあなたを覚えています。髪をくしけずりながらあなたを想う。髪に櫛を入れるたびに思い出します、髪を結うたびにあなたを思います。あなたが、好きですから。
「お前も髪を伸ばせ。オレと別れるまで伸ばしてろ。オレがいなくなったら切れ」
「あほ、俺が伸ばしたってみぐさいだけだろ」
「お前の髪の手入れくらいオレがしてやる」
卜部は応える代わりに唇を吸った。紅く熟れたそれは李のように膨らんだように水気を含み、弾けるように融けていく。ルルーシュの体温は卜部のそれに馴染んだ。
「おれのこと、わすれないで」
ただ、それだけを。
《了》